「タダイマトビラ」
村田沙耶香さんの「タダイマトビラ」。
主人公は狂っているように見えるけれどとても一貫した思考で生きて育っていて、そのせいかするする読めました。ネグレクトや虐待に対し子どもが憎しみをもつ展開が苦手なのですが(リアリティがないように感じる)、このお話ではすがすがしいほどに順応しているからよかった。子どもはどんな家庭でもその家庭で育つしかないから、歪んだ家庭でもある程度は適応してしまうと思うんですよね。そして周囲が哀れんでも、自分のことを不幸だってそんなに思わない気がする。それが自然な気がします。主人公の対比として弟がいるのもよかったです。
「脳をだます」ことに、誰しも一度はあこがれたり興味をもったりすると思うんですが、みんなそこまで没頭することはできずに諦めると思います。脳をだましきれないからです、そのうち「なにやってんだろ」という気持ちになるのがオチ。しかし主人公はそこに没頭してしまう。文庫で読んだんですが、背表紙の説明に「人間の想像力の向こう側まで疾走する」とあってものすごくぴったりな表現だなと感動しました。疾走した結果が動物としての人類、というのもすごくよかったです。妥当というか、腑に落ちる結論なので。
これを読む前に「ギンイロノウタ」を読んでしんどくなっていたのですが、「タダイマトビラ」で元気になりました。「ギンイロノウタ」、自己肯定が微塵もできずに女の性的魅力にすがろうとしてしまうのがほんとに読んでて胸糞悪かったです。お話はおもしろかったです。でも背表紙の説明がオイオイちゃんと小説読んだのか?みたいなズレた内容でした。
「ヘヴン」
川上未映子さんの「ヘヴン」。
いじめの話です。
「物事には必ず意味がある」というのはいつだって苦しいときの救いになります。ただコジマの言うそれは少しちがう。コジマはいじめに意味を与えて救われていますが、その一方で意味に自らの不潔さを与えてもいます。前者は現状に後付けした意味であり、後者は意味に即した現状を作っています。後者には覚悟が必要です。それに対し主人公は後者の覚悟を持ちません。べつに望んで斜視になったわけではないからです。コジマは主人公に過剰な同族意識を抱いていますが、実際彼女らは境遇が同じなだけで似たものどうしではありません。主人公が「斜視を治す」と話したときコジマが激昂したのも、単に期待と現実は違ったという話にすぎないのです。「君の目がすきだよ」という言葉もよく考えると、発している側と受けとる側とで意味がまったく通じていません。コジマは「君の目(が持っている私と同じような覚悟)がすき」なのに対し、主人公は純粋に「君の目がすき」だと受けとっています。
似ていないどうしだからこそ、ラストでの変わり方もまったく異なります。コジマは自らの覚悟に救われると同時に追いつめられてゆき、主人公は斜視を治してしまいます。コジマは「自分の世界」の美しさを極め、主人公は「ふつうの世界」の美しさに気づきます。
いじめの描写は痛くて苦しくて読むのがつらかったです。無意識に歯を食いしばったり息がとまったりしていて何度か投げだしました。それもあってか、いじめが発覚して母親と話す場面はぼろぼろに泣きました。大切なものが理不尽に傷つけられたり壊されたりするのはつらいです、月並みですけれど。
「愛の夢とか」
7つのお話を綴じこんだ短編集です。
表題作の「愛の夢とか」については、ある対談で川上さん自身が「東日本大震災を意識しています」と仰っていました。たしかに、物語の冒頭部分で地震が起こったとは書かれていますが、読後には忘れてしまいそうなことだったので意外です。そしてそれを踏まえて読んでみると、これは再生を描いているんじゃないかという気がしてくるのです。決して派手でない、人間の真に迫った再生。テリーと出会う前と出会ったあと(というか、会わなくなったあと)では、主人公のまとう雰囲気が変わっています。うす暗いグレーの絵の具に一滴、あかるい色を差したような、ささやかな変化ではありますが、彼女はたしかに「再生」しています。
それと「お花畑自身」。専業主婦と独身で働いている女性が言い合う(一方的な言い合いですが)場面が印象的でした。地の文が珍しくですます調で、売り払ってしまうお家もふんわりしていて、それだけに家を買い取る女性が際だって演出されたように感じます。男に経済的に依存するとはまったくどういう神経なのかわからないという女と、よくわからないけどちがう、と弱々しく否定する主人公には考えさせられるものがありました。
最後に「十三月怪談」。強烈でした。人間は意識を中心に生きていて、それは事実すら歪めてしまうという恐ろしさがあります。主人公の夫は最期まで亡くなった妻を想い、しずかに人生を終えるというのに、その行いはまったく妻に伝わっていません。むしろ彼女は何年も何年も意識の檻に囚われたまま、自分以外と愛しあう夫を見せつけられるわけです。夫も亡くなった妻に義理を立てて再婚しなかったわけではないでしょうが、それにしたってやりきれません。物語の最後、夫が妻との幸せな生活を味わっていたのも滑稽な感じがします。二人の関係なのにそれは個人の意識なのです。セックスと思っていたら自慰だったみたいなものです。でもこれと似たようなことって世の中にあふれかえっているとも思います。
この本、帯で江國香織さんが「しずかな奇跡」とコメントしていたのですがまったく言い得て妙というか、ものすごく納得してしまいました。しずかな奇跡。救われたかどうかとか変われたかどうかとか、それすらわからないほどにしずかな奇跡。でもこれはたしかに奇跡のお話たちです。
「消滅世界」
村田沙也香さんの「消滅世界」。
何が「消滅」しているかというとセックスですが、セックスだけ消滅して他は変わらないなんてことはないので、もちろんセックス以外にもいろいろ変わります。まず夫婦間の恋愛感情はなく、さらには恋愛感情そのものが消え、性欲はクリーンルームで処理するものとなり、子孫は家族単位でなく人類でのこすものとなります。
ぶっ飛んでるといえばそれまでですが、常識なんてほかの常識から見ればぶっ飛んでるに決まっている。そして常識は作られたものに過ぎずいつだって変化して、それが当然のものになる。村田さんの作品にはこのテーマがいつもあるように思います。ただ「消滅世界」に関しては詰めこみすぎな印象を受けました。変わりゆく世界について想像したことをそのまま書いたような。これも変わるあれも変わるのはわかるし理解はできるけど、単純にテンポが早いです。こういうテーマには短編が向いているのかもしれません。アイディアありきなところがあるので、長く書けば書くほど設定がごちゃごちゃする気がします。
「すべて真夜中の恋人たち」
川上未映子さんの「すべて真夜中の恋人たち」。
主人公はぼんやりとしていて冴えない校閲者。彼女なりの感性がしずかに描かれる小説かなと読みすすめていたら純粋なラブストーリーが展開され、かなりときめきました。ほんとうにゆっくりとした彼女のペースで恋心が育ってゆくのです。淡々としていて不器用で、感情があまり表に出なさそうな人だからこそ、本能的な愛情や秘めた想いの強さが迫るように想像されます。
冬子、三束さん、聖、聖を評する恭子と、いろいろな人が出てきて話したり話さなかったりするわけですが、読み終わって振り返るとみんな弱い部分がきちんと描かれていて人間らしいです。聖が冬子に言いたい放題して結局どっちも泣く場面なんてもう一緒にわーわー泣いてしまいました。二人とも弱い部分が傷ついて泣いてるのに少しずれていて、それもまた悲しくて。読んでいるときは何が悲しくてどうして泣くのかわからないままぐちゃぐちゃに泣いてしまうんですけどね、子どもみたいに。泣くにしてもこういう泣き方をさせる文章ってなかなかないなと思います。自分の無防備な部分が引っぱりだされて晒される感じ。読む人の琴線によるとは思いますが、個人的にはこの場面がいちばん印象的でした。
それとショパンの子守歌を聴いているときの描写!きらきらしく光にみちて天国のようにたおやかでした。読んでいるだけでうっとりしてしまいます。ああいう描写を切りとってあつめて、いつでも取りだせるよう身につけて生きていたいものです。